税理士事務所のM&Aを家族はどう考える?
- 小杉 啓太

- 8月29日
- 読了時間: 7分
更新日:9月5日
税理士事務所を長年経営していると、「この事務所をいつまで続けるか」「事業承継はどうするか」という問題は、遅かれ早かれ避けられないテーマとして浮かび上がります。近年では、M&Aという選択肢を用いて事務所を譲渡するケースも増えてきました。M&Aというと、大企業同士の買収や合併をイメージする方も多いかもしれません。しかし、実際には税理士事務所のような士業事務所でも、M&Aは現実的かつ有効な承継手段として注目されています。
とはいえ、この「M&A」という決断は、所長である税理士一人の問題ではありません。特に、税理士事務所の経営は家族と深く関わっていることが多く、家族にとっても大きな人生の転機となります。配偶者やお子様が事務所で働いていたり、自宅と事務所が同じ敷地にあったりすれば、その影響は仕事だけでなく生活全体に及びます。家族が日々支えてきた仕事場が変わることは、経済的な側面だけでなく、心理的にも大きな変化を伴います。
また、M&Aは将来の安心をもたらす可能性がある一方で、突然の話として家族に伝えられれば、戸惑いや不安を招くこともあります。だからこそ、所長自身が家族の立場に立ち、その気持ちや生活への影響を理解しながら話を進めることが欠かせません。本記事では、所長である税理士の皆さまがM&Aを検討する際に知っておくべき「家族の気持ち」について整理し、過剰な負担や心配をかけず、前向きにM&Aを進めるための考え方をご紹介します。
税理士事務所は、業務上は所長である税理士が中心ですが、その運営の背景には家族の存在が深く影響しています。特に個人事務所の場合、配偶者やお子様が専従者として勤務しているケースは珍しくありません。配偶者が日常業務を支え、経理や来客対応、顧問先との連絡調整を担当していることも多いでしょう。こうした場合、M&Aによる譲渡は単なる経営上の決断ではなく、家族の働き方や生活スタイルに直接的な影響を及ぼします。M&Aによる譲渡後も数年間は所長と配偶者が共に勤務し、その後同時に引退するという形は自然な流れと言えます。
また、お子様が大学卒業後すぐに事務所へ入所し、長年勤務しているケースもあります。そのお子様が税理士資格を持っていれば親族内承継も可能ですが、資格がない場合は親がいなくなった事務所で働き続けることへの不安が生まれます。雇用の安定といった現実的な問題だけでなく、経営者の交代に伴う環境変化への精神的な負担も大きいものです。
さらに、家族が事務所業務に関わっていなくても、事務所が所長所有の土地や建物内にある場合や、自宅と事務所が併設されている場合も少なくありません。こうしたケースでは、M&Aによる事務所移転や売却が家族の生活リズムや地域との関係にも影響を与えます。例えば、日常的に顧問先や職員が出入りしていた環境が変わることは、家族にとっても大きな生活の転換点となります。
このように、税理士事務所と家族は経営・生活の両面で密接に結びついており、M&Aはその関係に直接作用します。だからこそ、所長は「自分の決断が家族の生活や心理にどう影響するのか」を踏まえたうえで、準備や説明を行う必要があります。
家族が「M&A」という言葉を初めて耳にしたとき、多くは驚きや戸惑いが先に立ちます。「事務所をM&Aによって譲渡することにした」と突然告げられれば、特に経営が順調だと見えていた場合や、長年培われた日常がこれからも続くと信じていた場合、「なぜ今なのか」という疑問が生まれます。まるで当たり前だと思っていた景色に急に終わりが告げられるような感覚で、冷静な判断よりも感情的な反応が先に出てしまうのも自然なことです。
また、M&Aによって事務所名や看板が変わることは、外から見れば単なる形式的な変更に見えるかもしれません。しかし、家族にとってはそれが長年の思い出や誇りと深く結びついているため、生活の一部が失われるような感覚を伴います。その寂しさは理屈では割り切れず、「もう自分たちの事務所ではなくなる」という喪失感として心に残ることもあります。
さらに、顧問先や職員、地域社会との長年のつながりは家族にとっても身近で大切な存在です。毎年の年末挨拶や地域行事で顔を合わせる顧問先、所長を支えてきた職員、地元で築いてきた信頼関係──こうした人間関係がM&Aによって薄れてしまうのではないかという懸念は少なくありません。家族にとって、これは数字や契約書では測れない、情緒的かつ生活に直結する不安要素です。
加えて、M&Aは家族にとって将来の生活設計にも直結します。譲渡後の所長の働き方や収入の変化、生活リズムの変化など、日常の安定に関わる事柄がどうなるのかは大きな関心事です。「この先どうなるのか」という漠然とした不安は、事前に情報が十分に共有されない場合、必要以上に膨らんでしまいます。
このように、家族の心の揺らぎは「驚き」から始まり、「寂しさ」「不安」へと移り変わっていくのが一般的です。だからこそ、所長がM&Aを検討する段階から、背景や意図を丁寧に共有し、感情面にも配慮しながら進めることが、家族の理解と協力を得るためには不可欠です。
ここまでは、税理士事務所のM&Aに対する家族の関わりや心理的側面について見てきました。ここからは、M&Aを検討しないまま時間が過ぎ、突然の不測事態に直面した場合、家族にどのような負担が生じるのかを考えてみましょう。
もし、税理士1人体制の事務所で所長が病気になった、または亡くなってしまった場合、困るのは職員や顧問先だけではありません。一番大きな影響を受けるのは、実は“遺された家族”です。所長が突然亡くなった時点で、すべての業務は法律上停止状態に入り、顧問契約も「空中分解」する可能性があります。その後は相続や廃業といった手続きを進めなければなりませんが、特にやっかいなのが「目に見えない財産」の取り扱いです。顧問契約や未収入金、ソフトウェアや顧客データなど、評価や処理が難しい資産は、法律や税務の知識がなければ適切な対応が困難です。
さらに、スタッフの雇用契約や退職金、支払い済みのリース契約やローン、賃貸オフィスの解約手続きなど、廃業には膨大な事務作業と金銭的な負担が伴います。これらは専門知識があっても容易ではない上、突然の死に対する精神的なショックの中で、家族が全てを担うのはあまりにも酷です。
こうした「もしも」の事態を未然に防ぎ、家族への負担を大幅に軽減できる手段こそ、税理士事務所のM&Aです。事前に譲渡先を決めておくことで、業務の停止や顧問契約の喪失、スタッフの雇用不安などを回避できます。相続や廃業の煩雑な手続きもほぼ不要となり、家族が精神的にも時間的にも追い詰められる状況を避けられます。
特に重要なのは、元気なうちに譲渡先を検討することです。早めに動けば、選択肢は広がり、譲渡条件や理念継承の交渉にも十分な時間を確保できます。反対に、緊急事態に陥ってからでは、「売却せざるを得ない」状況になり、条件交渉どころではなくなります。早期の承継準備は、事務所だけでなく家族を守るための有効な手段です。
さらに、M&Aによる譲渡は、経済的な安定を家族にもたらします。譲渡対価を生活費や老後資金として活用できるだけでなく、将来への備えも整います。重要なのは、所長一人で進めるのではなく、家族にもメリットや意義をしっかりと伝え、納得感を持って一緒に進めていくことです。
M&Aは、単なる「売却」や「終わり」ではありません。これまで築いてきた事務所の価値や人間関係を、次世代へと確実に引き継ぐための手段です。信頼できる譲渡先を選べば、顧問先や職員はこれまでと変わらないサービスを受け続けられ、事務所の看板も形を変えながら息づいていきます。所長自身も、引継ぎ期間や顧問契約を通じて、無理なく関わりを続けられる場合が多くあります。
家族にとっても、経済的安定や生活リズムを維持しながら、将来への備えを整えられるというメリットは大きいものです。大切なのは、家族の感情の変化を否定せず、疑問や不安をそのまま所長と共有すること。そして、なぜこの決断に至ったのか、その背景を理解することです。
M&Aは、事務所と家族の未来を守るための前向きな選択肢です。時間をかけて納得しながら歩調を合わせれば、「やってよかった」と思える日が必ず来ます。だからこそ、安心して話し合いを続け、家族全員が納得できる形で未来への一歩を踏み出しましょう。





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