労務問題をきっかけとしたM&A事例
- 大竹 邦明

- 7月25日
- 読了時間: 9分

1.概要
今回ご紹介するのは、少し珍しい「労務問題をきっかけにしたM&A」の事例です。一般的に、税理士事務所におけるM&Aといえば、所長の引退や後継者不在といった理由が多いかもしれません。しかしながら、現場では実際に「もう自分ではどうにもできない」と感じるような労務問題を抱え、それをきっかけにM&Aに至るケースも存在します。
2022年9月、弊社にご相談をくださったのは、大阪で税理士事務所を経営するA先生(女性)でした。A先生は、先代であるお父様から事務所を引き継ぎ、職員1名・売上2,000万円程度の規模で経営をしていた方です。小規模ながらも地道に安定経営を続けておられましたが、2020年に大きな転機が訪れます。
同じく大阪で活動していた高齢の税理士、B先生が引退されることになり、その後任として、A先生が事業の一部を引き継ぐことになりました。この引き継ぎにより、売上は3,000万円、職員は4名が加わり、事務所の規模は一気に拡大しました。同時に、事務所も移転。引き継いだ職員の一人であり、B先生の息子でもあるCさんが所有する物件に事務所を構えることになったのです。
ところが、この引継ぎがきっかけとなって、次々と問題が噴出していきます。
まず一つ目の問題は、使用している会計ソフトの違いでした。A先生はそれまでMJSを主に使用していましたが、B先生側は同等に高額なJDLを利用しており、結果として事務所内に二重のシステムが混在する状態に。
次に、驚くべきことにB先生の事務所では、顧問料の徴収がすべて「現金手渡し」で行われていたのです。そしてその現金を管理していたのは、Cさん。A先生には詳細な報告がされず、資金の流れが非常に不透明な状態となっていました。
さらに深刻だったのが、Cさんの勤務態度です。無断での遅刻・早退や欠勤が頻繁に発生し、業務の報告・連絡・相談もない状態が続いていました。それにもかかわらず、Cさんの年収は800万円以上と高額に設定されており、担当している売上を上回る報酬が支払われていたのです。
極めつけは、引き継ぎから1年が経過し、事務所の決算処理を行った際に発覚した「使途不明金」です。なんと、B先生の旧部門で1,000万円以上の金額が帳簿と合わず、経理上の大きな問題が明らかとなりました。
こうした一連の問題により、事務所の経営状況は急速に悪化。JDLのソフト更新時には、銀行から借入をして更新費用を捻出するという事態にまで至っていました。A先生からは「あと1年でキャッシュが尽きて潰れます」との切実な声をいただきました。
さらには、Cさんの奥様が新たにワインバーを開業したとの情報も入り、ますます金銭面の不透明さに不信感が募ることとなりました。
弊社としては、もはや「承継」や「経営改善」といった次元ではなく、刑事事件の可能性すら感じる状況と判断。まずは信頼できる弁護士に相談するようご提案し、A先生も実際に法律相談を行いました。
しかしその結果、「Cさんの解雇を含め、弁護士として法的に有効な対応策が難しい」との返答があり、A先生は弊社に再度相談を戻してこられました。
2.問題職員との別れ方
法律による対応が難しいと分かった以上、他の方法で打開策を見つけるしかありません。そこで弊社では、M&Aを活用して問題を解決する方針に切り替え、具体的な支援をスタートさせました。
まず最初に確認したのは、「A先生がどうなりたいか」という理想像です。A先生の答えは明確でした。
「もともとの体制に戻りたい。つまり、信頼できる職員1名と2人体制で仕事をしたい」というものでした。
この理想を実現するためには、B先生から引き継いだ「売上」と「職員」の両方を、事務所から切り離す必要があります。つまり、引き継いだ部分を第三者に事業譲渡するという構想です。
ところがここには大きな壁がありました。税理士事務所で職員を事業譲渡するには、「転籍」に関して本人の同意が必要なのです。特に問題となっていたCさんは、事務所の大家でもあり、かつ現在の待遇に強いメリットを感じていたはずです。
年収800万円、自由な勤務体制、家賃収入まで得られる状況で、自ら転籍に同意するとは思えません。実際に、Cさんが担当している売上や勤務態度を踏まえると、一般的な税理士法人がCさんの雇用を希望することも考えにくい状況でした。
この状況を打開するために、弊社が提案したのが、「事務所全体を一旦譲渡する」という大胆な方法です。具体的には以下のような構想です。
・事務所全体を税理士法人に譲渡する
・その際、Cさんには「残る」か「転籍する」ではなく、
「転籍する」か「辞める」という選択肢を提示できる構造に変える
・物件もCさんの所有であることから、事務所を移転する
(譲渡先の拠点+A先生の自宅などに分割)
・譲渡から1年後に、A先生と信頼できる職員、元々の顧問先(売上2,000万円)で
再独立する条件をあらかじめ設ける
このように、M&Aを単なる「引退」の手段とするのではなく、「労務問題からの脱却と再出発」を目的とした戦略的な方法として活用する提案でした。
この提案に対して、A先生は「それならば希望が持てる」と感じ、正式に弊社の支援を受けてM&Aの準備に入っていくことになりました。
3.M&A後に再度独立する条件
A先生が抱える最大の悩みは、税理士事務所の中に巣食っていた「労務問題」でした。しかしその本質は、単に一人の問題職員の存在というより、「適切な経営判断を下すことが難しい環境」に陥ってしまっていたことにあります。法律的にも直接的な対処が困難な中で、唯一の解決策として打ち出されたのがM&Aによる一時的なリセットでした。
このM&Aでは、最初から「1年後の再独立」を前提条件としました。これは非常にイレギュラーな形式ではありますが、M&Aの柔軟な設計によって可能となるものです。具体的には以下の条件を明示し、譲渡先との合意を得る形で進められました。
・A先生本人は税理士法人へ1年間のみ所属し、その後に離脱
・同じく1名の信頼できる職員も、譲渡後に一時的に税理士法人の職員となるが、
1年後にA先生とともに独立
・顧問先の中でも、もともとの2,000万円分の売上
(A先生が承継前から対応していた顧問先)を、1年後に引き継ぎ可能とする
・引継ぎ後は、新たな税理士事務所として再スタートを切る
こうした「条件付きのM&A」は、税理士事務所ならではの柔軟性を活かした実例といえます。通常、M&Aというと「もう戻れない選択肢」といった印象が強く、特に所長税理士が「売ってしまったら終わり」と思い込んでしまいがちです。
しかしながら、今回のように「一度リセットしてから再出発する」という目的であれば、M&Aはむしろ前向きな選択肢となり得ます。もちろん、譲渡先との信頼関係が構築されていることが前提ですが、実際にはこのような合意を得ることができる税理士法人も存在するのです。
譲渡先として選定されたのは、すでに3拠点を運営しており、「職員の教育」「経営の改善」への意欲が非常に高い税理士法人でした。数件の候補から最終的に選ばれたこの税理士法人は、A先生のM&Aの意図を正確に理解し、将来的な再独立も快く受け入れてくれました。
譲渡後のCさんとの面談では、代表税理士が「この条件とルールを守れないのであれば雇用できない」と明言し、実際にCさんをA先生とは別の拠点に配属。業務報告や労務管理のルールを明確に定め、雇用関係を「見える化」する体制を整えてくれたのです。
このように、事務所全体を一旦預ける形で譲渡し、問題のある職員と距離を取りながら、1年後の再独立に向けた準備期間を得るというスキームは、他ではなかなか見られない柔軟な対応です。そして何より、このM&Aによって、A先生自身が「自分がどうありたいか」という原点に立ち戻ることができたことが、大きな成果といえるでしょう。
結果として、A先生はM&Aから1年後、信頼できる職員とともに再び独立し、元の事務所の姿に近い形で税理士業務を再開。売上も安定し、キャッシュフローも回復。何より、「自分の意志で経営できる環境」を再び手に入れることができたのです。
もちろん、使途不明金の回収やCさんとの法的な問題がすべて解決したわけではありません。それでも、今後の人生を前向きに歩む土台が整ったという点では、非常に意義のあるM&Aとなりました。
4.M&Aで解決できる問題もある
多くの税理士が「M&Aは引退のために使うもの」と思い込んでいます。しかし、今回のA先生のように、「労務問題」や「マネジメントの限界」を突破するための手段として、M&Aが非常に有効に機能するケースもあります。
特に税理士事務所は、小規模であればあるほど所長の業務負担が大きくなりやすく、職員との関係性が個人的なものになりがちです。その結果、一度関係が悪化したり、信頼が損なわれたりすると、法律だけではどうにもできないケースが少なくありません。
「退職してほしいけど言えない」「自分が事務所から出ていくしかないのか」と悩んでいる税理士の方も多いでしょう。そうした時、M&Aを使うことで「組織としての決定」「外部の支援を伴う変化」として、円滑に状況を変えることができます。
今回のように、一旦すべてを譲渡し、環境をリセットしたうえで再出発することができれば、税理士自身の精神的な負担も大きく軽減されます。特に、経営が行き詰まりそうな状況で「やり直す」ことは、経済的にも心理的にも非常に大きな効果があります。
また、税理士の世界では、職員数名の採用や退職が事務所全体の運営に直結するため、「たった1人の問題職員」によって事務所全体のバランスが崩れてしまうこともあります。このような場合、単なる人事異動や懲戒処分では解決できないケースがほとんどです。
M&Aは、「人」の問題を間接的に解決する手段にもなり得ます。もちろん、契約の設計や手続きには十分な注意が必要ですが、信頼できるアドバイザーとともに戦略的に進めれば、税理士事務所にとって最適な未来を取り戻す手段となるのです。
今回の事例のように、労務問題で悩む税理士の方が、「法律ではなく経営判断で解決する方法」に気づき、行動に移すことができれば、その先に広がる可能性は大きく変わります。
税理士という職業は、ただ帳簿や税務を扱うだけでなく、人と人との信頼関係に支えられています。その信頼が崩れかけたときこそ、勇気を持って変化を選ぶことが必要です。
今まさに、誰にも相談できない労務問題を抱えている税理士の方がいらっしゃるなら、ぜひ今回の事例を一つの選択肢としてご参考にいただければと思います。そして、税理士自身が「自分の働き方」「自分の幸せ」に正直に向き合いながら、よりよい事務所運営を実現していけることを心より願っています。





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