税理士事務所の譲渡実行時に起こる論点と見落としがちなポイントとは
- 小杉 啓太

- 3 日前
- 読了時間: 6分
税理士事務所の「譲渡」は、単なる契約書上の取引ではありません。長年共に働いてきた職員、お付き合いのある顧問先、地域で築いてきた信用すべてをバトンとして渡す、大きな節目です。
譲渡の検討段階では「評価額」や「譲渡スキーム」に目が向きがちですが、実際に譲渡を実行する段階では、思いもよらぬ細かな論点が次々と現れます。今回はそのなかでも、実際の現場で所長から質問が多い項目を中心に、「譲渡時に発生する疑問・議論」と「見落としやすい事柄」を整理してご紹介します。
譲渡実行後の最初の論点は、「自分の立ち位置」と「報酬」をどうするか、という点です。多くのケースでは、譲渡後も既存の拠点をそのまま維持し、譲渡側の所長は社員税理士として新しい税理士法人に加入します。これは、事務所の運営や顧問先の引き継ぎをスムーズに進めるための現実的な対応です。
また、出資金額はごく少額にとどめたり、「現物出資」として扱うなど、経済的な負担を軽くしておくことが一般的です。
報酬については、今の所得水準(営業利益)を基準に、70〜80%程度の金額で設定されることが多いです。これは、代表としての意思決定責任が減るため、自然な調整ともいえます。また、職務内容を引き継ぎながら段階的に縮小していく場合、役割の低減にあわせて報酬を少しずつ減額していく契約形態も珍しくありません。新体制での役割や顧問先対応の割合を見ながら柔軟に調整します。
税理士事務所の譲渡後は、その拠点で「今まで使っていた会計ソフト」をそのまま使い続けるケースが大半です。理由は単純で、職員が慣れていること、顧問先とのデータ連携が途切れないことが大きいからです。
ただし、引き継ぎ後しばらく経って職員の理解が得られるようになれば、数年内にソフトの統一・効率化を検討する流れも見られます。たとえば、全拠点で共通のクラウド型ソフトに切り替えると、帳簿チェックや経理処理の標準化が進み、後々の生産性が大きく変わります。
もし、会計ソフトの変更を行う場合は、すぐに「一本化」しようとすると職員の抵抗を受けやすいため、まずは「既存ソフトのまま数年運用 → 順次移行検討」という段階的な流れがおすすめです。
事務所内の働き方に関しては、譲渡直後からルールを変えようとせず、原則1年間は現状維持とする形が最もトラブルが少ないです。既存の就業規則(勤務時間や休日の取り扱いなど)をそのまま拠点ごとに維持し、新体制への移行をゆっくり進めます。
一方、事業譲渡の場合は、職員と譲渡先の税理士法人との間で新たに雇用契約を結ぶことになります。この際も、条件面はできるだけ現状通りとし、職員が安心して働ける環境を残すことが重要です。労働条件通知書や雇用契約書のフォーマットは、譲渡先の税理士法人のものをベースに、実態に合うよう微調整して使うケースが多く見られます。
具体的には、譲渡先の税理士法人では9時〜18時勤務だが、拠点の慣習が8時半始業なら当面は8時半始業のまま運用する、といった対応です。
職員の安心感に直結するのが退職金制度です。譲渡のタイミングでは、多くの場合、譲渡先の制度に合わせて一本化されます。ただし、譲渡先の税理士法人に制度がない場合や、既存の中退共の積立をどう扱うかは議論になりやすい点です。
譲渡先の税理士法人に退職金制度がある場合は、名義変更や制度の統合により、そのまま引き継ぐ対応が一般的です。一方で、譲渡先の税理士法人に退職金制度がない場合には、譲渡時点までの積立額相当を退職金として支給する、または給与に反映させるといった対応が検討されます。
また、中退共などの退職金積立は、名義変更によりそのまま移管できるケースも多く、事前に確認しておくとスムーズです。注意点としては、名義変更手続きには1か月程度かかる場合があるため、譲渡スケジュールと余裕を持って調整するのが安全です。
顧問先との関係維持は、譲渡後の最重要テーマです。契約書の形式や顧問料の徴収方法(収納代行サービスなど)は、なるべく早めに譲渡先の税理士法人の仕組みに統一していくのが一般的です。
ただし、「支店口座」や「新たな収納代行サービス」を利用する場合、口座引き落としの切り替えに最大3か月程度のタイムラグが生じることがあります。この期間は、譲渡側の所長名義または個人口座で一時的に入金を受け取り、後に精算する対応が現実的です。
なお、収納代行サービスの契約自体は、事業譲渡時に名義変更で引き継ぎできる会社も多いため、事前に業者へ確認しておくと安心です。
また、顧問先に「譲渡=請求方法が変わるから不安」と思わせないよう、書面や口頭で丁寧に説明を行うことが欠かせません。
意外と見落としがちなのが税賠保険です。譲渡先の税理士法人で新たに加入していない場合でも、「補償期間延長特則」を利用すれば、譲渡前の契約分については最大10年間、無料で補償を延長できるケースがあります。
つまり、「引継ぎ後に古い案件で万一トラブルが起きた場合」でも、適用条件を満たせば補償対象になるということです。譲渡直前に保険会社へ確認し、必要なら特則の申込書を提出しておくとよいでしょう。
個人名義で所有していた車をどうするかも、実務上の悩ましいポイントです。税理士法人への譲渡では、代表者が同一でなくても、「記名被保険者の引継ぎ(ノンフリート等級の継続)」を特例として認める保険会社があります。ただし、対応は会社ごとに異なるため、事前確認が必要です。
実際のところ、この手続きは想像以上に煩雑なため、契約をそのまま個人で維持し、譲渡先の税理士法人側が車両経費として手当や経費精算で負担するケースも多く見られます。この方法の方が手続きが簡単で、税務処理上の整合性も取りやすいため、特に短期的な移行段階では現実的です。
最後に、譲渡実行時に多くの所長が「思っていたより大変だった」と感じるポイントを整理しておきます。
(1)職員の気持ちのケアが後回しになる
契約や会計処理に気を取られがちですが、「どのように働き方が変わるのか」を日々説明し、安心感を与えることで離職防止につながります。
(2)細かな契約変更のスケジュール管理不足
会計ソフト、代行サービス、保険、退職金など、それぞれの名義変更に数週間〜数か月かかります。全体のタイムラインを一枚のスケジュール表にまとめておくと混乱を防げます。
(3)譲渡後の「次の一手」が決まっていない
譲渡後は、譲渡側の所長がどこまで関与するか、不明瞭なままになると職員が迷います。役割と今後のゴールを明確に共有しておくことが、安定した運営につながります。
税理士事務所の譲渡の成功は、「契約書が締結された瞬間」ではなく、「新しい体制で顧問先と職員が安心して動き出せたとき」に初めて形になります。法律や制度の知識も重要ですが、最終的に問われるのは所長としての誠実な姿勢と、現場の理解を丁寧に積み重ねる姿勢です。
一つひとつの論点に丁寧に向き合いながら準備を進めることが、結果として、関わるすべての方にとって納得感のある承継につながっていきます。税理士事務所の譲渡は重要な意思決定であるからこそ、目先の条件だけでなく、その後の運営や関係性の変化まで見据えた設計が重要です。小さな違和感や不安をそのままにせず、事前に整理し、一つずつ解消していく積み重ねが、スムーズな引き継ぎと安定した新体制の実現につながります。





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