税理士事務所の承継で顧客と職員の“安心”をどう守るか
- 小杉 啓太

- 10月24日
- 読了時間: 7分
税理士事務所のM&Aや承継において、最大のリスクの一つが「顧客離脱」です。顧問先は「税理士個人」との信頼関係でつながっていることが多く、単に契約を引き継いだだけでは継続が難しいケースもあります。そのため、承継プロセスでは「顧客との心理的な距離をどう埋めるか」が最重要課題となります。
成功事例に共通するのは、顧客への告知タイミングと伝え方の工夫です。「経営統合しました」という硬い案内を突然送るのではなく、前向きなメッセージを添えた営業資料形式で〝進化したサポート体制〟を示すことが効果的です。例えば、「〇〇事務所は新たに税理士法人△△の一員となり、これまで以上に迅速で多面的な支援をお届けします」といった紹介文を用意し、顧客との面談や定期訪問の場で担当職員が直接説明します。この「人による説明」が、信頼の継続に直結します。
また、譲渡側の所長税理士が一定期間、支店長や顧問的な立場で引き続き関与することも有効です。事業譲渡直後は顧客も不安を抱くため、「顔の見える継続」は安心感を生みます。加えて、会計ソフトや連絡体制などの業務インフラを急に変更せず、当面は既存のシステムを維持することも重要です。IT環境を変えないことで、顧問先の手間と心理的負担を軽減できます。
最後に、職員との連携を強化することで、顧客対応の品質を維持します。職員が同条件で雇用を継続し、これまでの担当顧客を引き続きサポートできる体制を作ることが、顧客ロイヤルティを守る鍵です。顧客が安心して「事務所は変わっても担当者は同じ」と感じられる状態を整えられるかどうかが、失客を防ぐ最大の分岐点となります。
M&Aや承継の現場で、最初に起こるのは「職員の動揺」です。所長の引退や経営統合を耳にすると、先行きへの不安から退職を考える職員も少なくありません。これを防ぐためには、情報開示のタイミングとコミュニケーション設計が極めて重要です。
一般的なM&Aでは、情報漏洩を防ぐ観点から「譲渡実行後」に従業員へ通知されるケースが多いですが、税理士事務所のように職員の信頼維持が業務継続に直結する場合、この方法は失敗の原因になり得ます。弊社が支援する承継案件では、譲渡実行の2か月前に顔合わせの場を設けるのが基本です。形式的な説明会ではなく、会食やランチ会を通じて「この人となら一緒に働ける」と感じてもらう時間を確保します。
また、就業規則や退職金制度といった労働条件の変更には慎重を期す必要があります。譲渡後1年間は現状維持とし、実際の支店ルールをそのまま引き継ぐことが望ましいです。制度格差を埋めるために、必要であれば退職金掛金分を給与に上乗せして調整するなど、職員の生活不安を取り除く具体策も効果的です。
さらに、職員を“事務所の代表者”として扱う姿勢が大切です。承継先の代表が直接職員一人ひとりと面談し、「今後もあなたと一緒にこの顧問先を支えたい」とメッセージを伝えることで、安心とやりがいを感じてもらえます。信頼関係を築けば、「M&A後に辞めたくなる心理的不安」はほぼ解消されます。最終的に職員の継続こそが、顧客維持、そして承継成功の最大要因なのです。
「M&A後の離職ゼロ」これは理想論ではなく、実際に達成している税理士事務所があります。成功の鍵は、職員と顧客双方に“成長の未来”を見せるマネジメントにあります。
ある弊社でのご支援事例では、譲渡実行の2か月前から職員同士の交流をスタート。新年会やオフサイトの会食、サッカー観戦などを通して自然な関係づくりを進めました。重要なのは、“資料や契約中心”のM&Aではなく、“人同士の相互理解”を軸にした統合を行ったことです。その結果、職員全員が継続勤務し、顧問先にも混乱が生じませんでした。むしろ、新規顧客の紹介が増えたという好循環が生まれています。
ゼロ退職を実現する事務所に共通するのは、リーダーが「経営者」から「対話者」へと役割を変えた点です。経営統合後も譲渡側の所長は支店長や社員税理士として現場に残り、職員や顧問先に寄り添う立場を担いました。一方で、譲受側のリーダーは“トップダウン”ではなく“伴走型の経営”を行い、意思決定を共有制にしました。
また、承継後のキャリアパスも重要です。「M&Aで将来が狭まる」のではなく、「法人化によって昇進・評価のチャンスが広がる」というビジョンを明示したことで、職員のモチベーションが維持されました。こうした人材マネジメントが功を奏し、職員の退職ゼロ・顧客離脱ゼロという理想的な承継を実現しています。M&Aとは「終わり」ではなく、「仲間が増える始まり」と捉える発想が成功の基盤です。
税理士事務所の承継において、顧客や職員の安心を守ることは経営継続の根幹ですが、特に職員の心理的ケアや新組織文化の醸成が重要な課題として挙げられます。多くの失敗事例は、職員の不安や違和感を放置した結果として離職や顧客離脱を招いています。成功する税理士事務所のM&Aでは、早期から職員との対話の場を設け、情報の共有と心のサポートに力を注いでいる点が共通しています。
弊社が支援した成功事例では、譲渡実行の2か月以上前に顔合わせの食事会やランチ会を設け、新旧双方の代表が直接職員とコミュニケーションを重ねています。この「早期の顔合わせ」によって、職員は新体制の代表者の人柄や考えを直接感じ取ることができ、不安が和らぎ、安心して新事務所の一員として受け入れる準備ができました。単なる説明会ではなく、雑談ができるリラックスした場をつくることで、「この人なら相談できる」という信頼関係が自然発生しています。
また、譲渡後の就業規則や退職金制度についても、原則1年間は現状維持とする方針をとりました。これにより、職員は業務環境の突然の変化に恐怖を感じることなく、自分の生活設計を崩されない保証を得ています。さらに、譲渡先の職員とも定期的に交流会を開催し、所属感の醸成や組織間の壁を取り払う努力が続けられています。こうした継続的な交流が新しい組織文化の形成につながり、職員の定着率向上に寄与しています。
経営者側も「単なるお金の受け渡し」という視点を超えて、「職員や顧客の将来を考えたパートナーシップ構築」が必須だと認識しています。譲渡側所長が譲渡後も支店長や社員税理士として一定期間現場に残り、引継ぎと心理的支援を継続するケースが増えており、それがまた職員の安心感を強めています。譲受側も「職員が成長しやすい組織づくり」や「職場の雰囲気づくり」を重視し、トップダウンではなく対話尊重の経営スタイルを採用しているため、従業員は自分の意見が尊重される環境と感じ、積極的に組織に関わろうとしています。
このように、承継プロセスにおける心理的サポートと組織文化づくりは、単なる業務引継ぎや契約手続きの枠を超えた「人を中心に据えた経営戦略」です。職員や顧客に寄り添った丁寧な対応が、事務所の未来を支える強固な基盤となるのです。承継の成功には、「愛」と「信頼」という無形資産の継承こそが欠かせません。
税理士事務所のM&A・承継の本質は、「譲渡対価」でも「スキーム」でもなく、人の信頼をつなぐプロセスにあります。所長、職員、顧問先という三者の安心をどう守るか。その設計こそが、成功の可否を分けます。
顧客対応では、事務的な通知よりも前向きな「発展の知らせ」として案内すること。職員対応では、早期コミュニケーションを通じて関係を築くこと。そして経営者自身も、「M&A=引退」ではなく「経営のパートナーを得る手段」として捉える柔軟な発想が求められます。
最終的に、承継成功のキーワードは「目的」です。誰のための承継なのか──顧問先、職員、自身の幸せを見据えて判断できる経営者こそが、最良の未来を築けます。事業の継続とは、関係の継続。人を中心に置いた承継設計が、真に強い税理士事務所を生み出します。




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