買い手としての税理士事務所M&Aの考え方 ~事業会社と同じ考え方では交渉が進まない~
- 大竹 邦明

- 7月21日
- 読了時間: 8分
1.税理士事務所のM&Aは「=売買」のみでは成立しない
税理士事務所の所長として、M&Aによって顧問先が業務を譲り受ける場面に直面することがあるかもしれません。その際、つい「これはビジネスの売買なのだから、金額さえ合えば成立するだろう」と考えてしまう方もいます。しかし、税理士業界におけるM&Aは、事業会社のM&Aとは事情が大きく異なります。特に、買い手側が「単なる売買」という発想だけで交渉に臨むと、多くのケースで思うように進まず、破談になることすらあります。
最近では、「最短●か月でM&A成立!」というような広告を目にすることもありますが、あれは基本的に事業会社における「株式譲渡」や「事業譲渡」の話です。株式会社のM&Aでは、経営権を持つ株式や持分の売買を行うだけで法人自体は変わらず、オーナーが交代するにすぎません。つまり、会社としての体制や従業員、契約関係が基本的にそのまま維持される前提のうえでの交渉となるため、比較的スムーズに進めることができます。
また、事業会社では「社長が変わっても売上が変わらない」ような体制を整えている場合も多く、属人性が薄いことがM&A成功のカギになります。
一方、税理士事務所のM&Aとなるとどうでしょうか。多くの事務所は、所長である税理士本人が顧問先との関係性の中心にいます。これは悪いことではなく、「先生にお願いしている」「先生だからお願いしている」という信頼関係が築かれているという意味ではむしろ強みでもあります。しかしその一方で、所長が変わることでその信頼関係が一気に崩れてしまうというリスクも抱えているのです。
つまり、税理士事務所のM&Aは、事業会社のように「売買して終わり」とはいかず、「所長の交代」「顧問先の信頼維持」「職員の引継ぎ」など、多くのソフト面でのケアが求められます。契約書の取り交わしや対価の決定といったハードな手続きだけではなく、人と人との信頼関係をいかに維持・構築していくかという視点が欠かせないのです。
そのため、税理士として譲受を検討する場合には、「これは事業を買うというより、“人と関係性を引き継ぐ”という行為である」と捉える必要があります。価格交渉だけに終始してしまうと、売主との信頼関係も築けず、結果として顧問先や職員が離れてしまい、M&Aの本来の目的が果たせなくなります。
繰り返しになりますが、税理士事務所のM&Aは、株式や資産の「売買」だけで完結するものではありません。その先にいる顧問先や職員、そして売主である所長の感情や希望を丁寧に汲み取る姿勢が必要なのです。
2.お金の問題:売主の所得と営業利益が一緒くた
税理士事務所のM&Aがスムーズに進まない大きな理由の一つに、「利益の見え方」があります。これは、買い手である税理士事務所の所長が見落としがちな重要なポイントです。
通常の事業会社では、役員報酬などを支払った後の「営業利益」や、減価償却等を調整した「EBITDA」を基に、会社の収益力を評価します。買い手は、M&A後にこの利益をどれだけ維持・拡大できるかを見据えて譲渡価格を算出します。
しかし、税理士事務所の多くは「個人事業主」として運営されています。つまり、所長の収入は「営業利益」でもあり「役員報酬」でもある。会社と経営者の財布が明確に分かれていないため、譲受後の営業利益がいくらになるのかは譲受後の条件を定めない限りはわからないのです。
そのため、譲渡後の所長の関与の仕方は重要です。買い手としては、譲渡対価を支払う以上、引退してもらうか、現役で関与し続けるなら報酬を抑えてもらう必要があります。そうしなければ、営業利益は買い手側に残りません。
しかし現実的には、所長にも生活がある以上、「明日から所得を1,000万円下げてください」と言えるはずもなく、多くの所長が現役を続けながら所得を維持したいと考えています。
そこで、よくある誤解が「じゃあ、もう少しして引退直前に譲渡してもらえばいいじゃないか」という考えです。しかし、これにも落とし穴があります。所長が完全に引退してしまうと、その影響で顧問先の解約が相次いだり、職員が不安を感じて退職したりするリスクがあります。税理士事務所のM&Aでは、所長の存在感がそのまま顧問先や職員の安心材料になっているケースが多いため、「所長の引退=事務所の崩壊」になることもあるのです。
ではどのように対応するケースが多いのかというと、次の2つの方法です。
①売主がこれまで通り仕事を継続し、報酬を得る場合
→譲渡対価の支払いタイミングを遅らせる。
売主の退職時(退職金支給)など営業利益が増加するタイミングで支払う。
②売主が現役続行するものの、役割・責任を減らしたい場合
→減らす業務・責任の割合に応じて、これまでの所得から減額して報酬を設定。
譲渡対価は複数年の分割で支払う(営業利益の範囲内)。
これらの方法であれば、買い手として「キャッシュアウトだけしてリターンが無い」といったことにはなりません。
3.人の問題:事業譲渡には職員の転籍同意が必要
税理士事務所のM&Aで、買い手が見落としがちなもう一つの大きな要素が「人の問題」です。特に事業譲渡の形を取る場合、これは非常に重要な論点になります。
株式会社のM&A、特に株式譲渡であれば、会社そのものが存続するため、従業員の雇用契約もそのまま維持されます。しかし、税理士事務所のM&Aでは、個人事業主が事業を廃業し、譲受側が事業を引き継ぐ形になる「事業譲渡」が一般的です。この場合、売主側の職員は一度雇用契約が終了し、改めて譲受側の事務所に採用される必要があります。
ここで問題になるのが、「転籍には職員本人の同意が必要である」という点です。つまり、職員の一人ひとりが、「新しい事務所で働きたい」と思ってくれなければ、M&Aは事実上うまくいかないのです。
たとえば、ある巡回担当者が長年顧問先を担当していたとします。その職員が転籍を拒否して退職してしまった場合、顧問先との関係性も崩れ、解約につながる可能性があります。最悪のケースでは、その担当者が独立したり、他の事務所に引き抜かれたりすることで、顧問先ごと流出してしまうこともあります。
また、転籍を了承してくれたとしても、譲受側の事務所との「カルチャーフィット(職場の考え方や雰囲気の相性)」が悪ければ、長続きはしません。M&A後、「この事務所の方針にはついていけない」「人間関係がストレスだ」といった理由で、1年以内に辞めてしまう職員も少なくありません。
これは、譲受側がどれだけ「制度や待遇」を整えていても、「現場の雰囲気」や「上司との関係」に不安を感じられれば無意味です。税理士事務所のように少人数の組織であればなおさら、一人の職員の存在感や人間関係の影響が大きいため、「合う・合わない」は無視できない要素となります。
こうしたリスクを回避するには、M&A前からしっかりと職員とのコミュニケーションを図り、「誰とどのように働くのか」「働き方はどのように変わるのか」といった点を、丁寧にすり合わせていく必要があります。場合によっては、譲受側の所長が売主側の事務所に何度も足を運び、現場を理解し、職員との信頼関係を築くことも求められます。
また、給与や待遇といった「条件面」での整合性も重要です。譲受側の給与水準に合わせようとして、売主側職員の給与が下がる場合には、納得感のある説明が必要です。「M&Aで給料が下がった」という印象だけが残れば、離職リスクは一気に高まります。
結局のところ、M&Aとは「人の引継ぎ」です。譲渡側の職員が安心して働き続けられる環境を整えなければ、顧問先の引継ぎも、事務所の成長も望めません。「買ったのだからあとはうまくやってほしい」という姿勢では、税理士事務所のM&Aは必ず失敗します。
4.まとめ
ここまで、税理士事務所のM&Aにおける重要なポイントを3つの視点から見てきました。
まず第一に、「税理士事務所のM&Aは、単なる売買では成立しない」という点です。よくある事業会社のM&Aとは異なり、所長の属人性や顧問先との関係性、職員との信頼が大きく影響します。単に契約書を交わして終わる取引ではなく、「人」をどう引き継ぐかを考えなければなりません。
第二に、「売主の所得と、譲受側にとっての営業利益は別物である」ということ。個人事業主である税理士の所得は、単なる数字ではなく、その人の生活基盤そのものです。買い手としては、売主と一緒に譲渡後の営業利益の設計を考え、売主にも理解・協力してもらう必要があります。そのうえで、譲渡対価の支払い方法も工夫する必要があり、支払いのタイミングを遅らせる方法、営業利益の範囲内で分割払いする方法などが一般的です。
そして第三に、「職員の転籍同意と、その後の定着支援が不可欠である」という点。どれだけ立派なM&Aを成立させたとしても、職員が離れてしまえば、業務も顧問先も維持できません。職員にとっても大きな転機となるM&Aですから、働きやすさや安心感を提供できるよう、譲受側が積極的に歩み寄る姿勢が求められます。
M&Aという言葉だけを見ると、どうしても「経済的な取引」「会社間の戦略」といった印象が強くなります。しかし、税理士業界のM&Aは、もっと人間的で、もっと繊細な調整が必要な「引継ぎのプロセス」だと言えるでしょう。
買い手として税理士事務所のM&Aに取り組む際には、「譲渡後の利益」だけでなく、「譲渡前後の関係性」や「職員・顧問先との信頼の移行」に重きを置くべきです。交渉においては、相手の事情や思いに耳を傾け、職員や顧問先にとっても最良の道を一緒に模索していく。そのような姿勢こそが、成功するM&Aへの近道です。




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